「抒情」の奇妙な交響曲

 24日は都響の定期だった。シュレーカーの室内交響曲と、ツェムリンスキーの抒情交響曲という、大野和士の指揮で聴きたいプログラムだ。

 シュレーカー作品は、室内交響曲という名の割には、オルガンやらハープなどが入る編成。単一楽章で、そのなかに4楽章分の構成が詰まっているものの、その中心となるのはスケルツォ部分。いってみれば、スケルツォにアレグロやアダージョといった目鼻を付けて交響曲の体裁をつけたような。

 まるでシューベルトのスケルツォ楽章をあれこれ付け足して20分に拡大、間延びして聴かせたような音楽だ。そうした間延び(拡張)こそ、20世紀ならではの作法といえるかもしれない。ロマンティシズムは直接手に触れることはできないといったもどかしさが、リアルに伝わってくるような。

 大野と都響は、そうした拡張された音楽をキチッとしすぎないよう(そうすると途端につまらなくなる)、ユルすぎないよう(ユルすぎて収拾が付かなくなる)、適度なバランスを保って演奏。そのへんはさすが。

 後半は大曲、ツェムリンスキーの抒情交響曲だ。
 全7楽章、男声と女声が交互に歌われ、男女のすれ違いが描かれる音楽だが、今回、縁取りくっきりとした演奏を聴いて、ずいぶんとこの曲の意味がわかったような気分になった。

 バリトンの楽章は、内省的というか抒情的。それに比べると、ソプラノの楽章は、ずいぶんとフィジカルな感じ。この対比が面白い。第5楽章(バリトンが愛のヨロコビを歌う)では、燃え上がるように、急にフィジカルになるけど、どこかR.シュトラウスのオペラのドタバタ・シーン(ばらの騎士とかね)を彷彿とさせる。

 この作品は、アルマ・シントラーに失恋したツェムリンスキーの痛みが反映されている曲だという。そういう情報を加味すると、これまで茫洋と感じてきたこの音楽だって、よりわかりやすくもなる。

 主人公は、男を振り回す、官能的な女に恋した男。彼はワン・ナイト・ラヴに持ち込むが、女はそれ以上の関係は望んでなくて、あっさりと放流される、といったストーリーが浮かび上がる。これを男の立場から見たのが、この交響曲といっていい。だから、男はうじうじ内省的だし、女はカラッとするほどに自らの欲望に忠実。

 第7楽章で、ソプラノが妙に劇的に別れを告げるのは、男のほうからの願望が入っているのだろうし、最終楽章でバリトンが「キミも幸せになればいいね」とポジティヴに歌うのにも、やはり「ホントはそんな気分になればいいのになー」っていう願望が見え隠れする。
 
 10年以上前だったか、アルミンクと新日フィルでこの曲を聴いたときは、ずいぶんほっそい演奏で、こんな生々しく音楽が迫ってこなかったけど、この日の演奏は緊張感を保ちながら、じつに太い線で音楽を語らせていた。コーダにこんな響きが隠されていたのかーなど、発見も多かったし。
(10月24日 東京文化会館大ホール)